古代律令時代の江田駅跡に照葉樹に覆われて建つ江田神社

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 江田神社は、県道11号線(通称山崎街道)沿いを宮崎駅から15分程走ると、『フェニックス・リゾート』の西側、市民の森の中にあります。
 江田神社は宮崎市の阿波岐原(アワキガハラ)という場所に建ち、ここは祈年祭などで「かけまくもかしこきイザナギノオオカミ、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」と神主が口上する祝詞の中に出てくる土地で「祝詞発祥の地」と云われています。
 
 この辺りは古代の江田駅跡でした。

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 この付近は、古代律令時代の江田駅跡でもあり、中央と地方を結び物資及び書簡の運搬のために官道が整備されていました。 約30里ごとに駅が作られ、駅には駅馬が置かれ、日向国には16の駅が作られており、その一つが江田駅で、この江田神社の敷地内にあったと云われています。

由来とご祭神

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 「和名抄」宮崎郡条に見える江田郷に鎮座する古社で、承和四年(837)八月朔日に都農神・妻神・霧島岑神とともに官社に列しており、平安期にはすでに創建されていたことがうかがえます。
 鎮座地一帯は古来いわゆる日向の橘の小戸の阿波岐原として、伊邪那岐大神の禊祓の聖蹟と伝承されており、命の上つ瀬は瀬速し下つ瀬は瀬弱しといわれ、中つ瀬で禊祓いされた、その中つ瀬は、本社から二町位東の海中であるといわれています。
 寿永年間(1182~1184)伊邪那美尊を配祀し、産母二柱大明神と称し、里人からは産母様として親しまれ、社領三十余町を有していました。 仁寿元年(851)十月従四位下を授けられ、貞観元年(859)従四位上に進められ、その後天禄元年までに天変地妖兵革等の年毎に叙位八回に及び、正一位に昇階ありと伝えられています。 醍醐天皇の延喜年間に於いて、延喜式内社日向四座の一社として「延喜式神名帳」に登載され、祈年・新嘗の奉幣を受けました。 しかし、寛文年間に神社制度の変革をきたし、ついに一村落の産土神と同様の取扱いを受けるに至っています。
明治六年五月二十五日社格は県社に列し、同四十年二月九日神饌幣帛料の供進を指定され今日に至っています。
 伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)
 伊邪那美尊(いざなみのみこと)

 国生みを終えた伊邪那岐(イザナギ)と伊邪那美(イザナミ)は、今度は神々を生みました。 『古事記』には35柱と記されていますが、実際に伊邪那岐と伊邪那美の2柱の神が生んだのは17柱です。
 先ず、7柱の神が生まれました。 岩巣、大戸、大屋、風に耐える力など、住居に関わる神々です。
 次に大綿津見(オホワタツミ)ら無味、河なと部図に関わる3柱の神が生まれ、続いて風、木、山、野の4柱の神が生まれます。 そして最後に3柱の神が生まれました。 船の神、食べ物の神、そして火の神など、生産に関わる神々です。

 神生みを助けた神々

 伊邪那岐と伊邪那美から生まれた神々の中には、2神の神生みを助けるために、自分の分野に関わる神々を担当して生んだ神もいました。速秋津日子(ハヤアキツヒコ)と速秋津比売(ハヤアキツヒメ)という河の二神は、泡、凪、波、水面などの、水に関わる八神を生んでいます。(注)
 山と野の神もまた、山頂、霧、峡谷、迷い路の、男女八神を生んでいます。

(注) 速秋津日子(=速開都彦)と速秋津比売(=速開都比売)が生んだ八神は沫那芸神(アワナギ)、沫那美神(アワナミ)、頬那芸神(ツラナギ)、頬那美神(ツラナミ)、天之水分神(アメノミクマリノ)、国之水分神(クニノミクマリノ)、天之久比奢母智神(アメノヒザモチノ)、国之久比奢母智神(クニノヒザモチノ)

 一の鳥居
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 鳥居脇に設置された禊の碑と説明板
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 参道内 二の鳥居
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 手水場
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 拝殿と社務所
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 拝殿内部
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 流造の拝殿(12坪)と本殿(3.4坪)
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 禊池(ミソギイケ)

 伊邪那美は、火の神 迦具土(カグツチ)神を生みます。 その時陰部に大火傷を負ってしまいましたが、病床で苦しみながらも、嘔吐物や糞尿から鉱山や土・水などにまつわる六神を生みました。 その内の一神 生成を司る和久産巣日(ワクムスヒ)神は、後に穀物の女神を生んでいます。 しかしやがて伊邪那美は死んでしまいました。
 最愛の妻の死を諦めきれない伊邪那岐は、妻を取り戻しに黄泉の国へと向かいましたが、変わり果てた伊邪那美の姿に恐れをなし、伊邪那岐は逃げ出します。
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 背後から、迫る追っ手に気づいた伊邪那岐は髪飾りや櫛の歯を投げつけて、これを撃退。 次に雷神が大軍を率いて迫ると、黄泉津比良坂の麓に生えていた桃の実を投げつけて退散させました。 そしてついに伊邪那美自身が追ってきましたが、伊邪那岐は多いわで道を塞ぎます。 伊邪那美は伊邪那岐に向かって『地上の人間を一日に1000人殺します』と恨みを込めて言い、伊邪那岐は『それなら一日に1500人子を産ませよう』と応答。 二柱の神は永遠の決別をしたのですl。
 黄泉の国から地上に戻った伊邪那岐は、日向(ヒムカ)の阿波岐原(アワキガハラ)に向かうと、黄泉の国の汚れにまみれた体を清めるために禊をおこないます。
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 伊邪那岐が禊をすると、又多くの神々が生まれました。 この内の天照大御神(アマテラス)、月読神(ツクヨミ)、建速須佐之男神(スサノヲ)は、神々の中でも最も尊い存在とされています。
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 みそぎ御殿
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[参考]
 宮巡 ~神主さんがつくる宮崎県の神社紹介サイト~
 西東社 古事記と日本書紀
 

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